聖書協会共同訳

 

 

聖書協会共同訳という聖書が2018年12月に発売されました。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

記者会見を観るとと、この聖書がどのように訳されたのかが分かります。

 

 

 

 

特に心に残ったポイントは、3つ。

 

 

 

 

1.礼拝で用いることを目的としていること。

 

 

 

 

2.文字を見ないで、音声だけでもよく分かるようにチェックしてあること。

 

 

 

 

3.歌人や詩人の意見も参考にしたため特に詩篇の翻訳が秀逸であること。(実際読んでみると、納得!)

 

 

 

 

私は、先に発行された新改訳2017と並行して読んでいます。レイアウトも大きく異なり、それぞれの良さがあると思います。

 

 

こうして、最新の訳を楽しめるのは、嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は文語訳も好きなのですが、今回の聖書協会共同訳の詩篇は、日本語としての響きがすばらしく、文語訳に通じるものがありますね。

 

 

 

「許し」と「赦し」

教会がキリストから委ねられた使命は罪のゆるしを与えること。(福音に仕える教会2 西大寺キリスト教会)加藤常昭著『教会とは

何か」より引用。

そうですよね。福音が「良い知らせ」ならば、「あなたの罪もゆるされる」というメッセージを発信していくことが大切ですね。

ところで、「許し」と「赦し」はどう違うのでしょうか。
聖書に出てくるゆるしとは、後者です。これは、してしまったこと(取り返しのつかない過去の行為)に対するものです。
一方で「許し」というものは、「ある行為に対する許可」を意味します。

つまり、「赦し」の方には、「時制が伴う」ということですね。「許し」は時制を伴いません。
どういうことか、具体的に取り上げたいと思います。

たとえば、配偶者が不倫をしてしまった場合、「許し」ではなく「赦し」が問われます。
行為そのものに対して決して「許す」ことはできません。
しかし、相手が謝罪してきたら「赦す」ことは選択肢としてありうるということです。

教会は、「許し」を宣言するところではなくて、「赦し」を宣言するところです。
何をしてもいい、罪に問われないのではありません。必ず罪に問われます。
しかし、本人が「罪を言い表す」(罪の告白、罪を悔いること)によって、神の前に赦された者となる、正しい(義)とされます。

これはすごいことですね。しかもこの神の赦しの時制は、過去、現在だけではなく未来にまで及びます。許されえない行為は、やはり許されない。けれども赦されうるということです。

「ごめんで済めば警察はいらない」ということばがありますが、赦しの根拠はキリストの十字架の犠牲にこそあります。この話は、また別の機会に。




神への信仰は外から

「神への信仰は私の内側から湧き上がってくる感情ではありません。それは、確かに私たちの外から、すなわち主イエス・キリストの十字架の贖いからのみもたらされるものです。」『ニカイア信条を読む』朝岡勝著 p46より


自己啓発系のスピリチャルカウンセリングに多いのは、「あなたは悪くない。本当は優しい人。どうかあなたの心の内にある本当の優しさに気付いてあげてください。」といったものです。

誰でもそんな風に言われれば、気を悪くしません。自分が本当は良い人間で純粋な存在であると思いたがる。日本人の多くは、性善説を容認しているのではないかと思います。その証拠に、死んだらみんな天国へ行くと何となく思っています。


でも聖書的な人間観は、それとは異なります。

アダムとエバが、神からの命令に背いて食べてはならない木からその実を取って食べてから、人間の根本的な魂に罪が入りました。それゆえ次の世代で兄弟間の殺人が行われます。妬み、高慢、憎しみ、殺意など負の感情が、人間の魂を貪るのです。


大切なことは、これが神話などではなく、現実的に私たちの魂にまで及んでいるということです。

あなたはどうして「あの人」をゆるせないのでしょう。「あの人」を受け入れられないのでしょう。どうしてまっすぐ愛することができず、歪んだ感情によって相手を支配したり、コントロールしたりしようとしてしまうのでしょう。


もちろん、人間は、神に似せて作られた神のかたちを持っていますから、愛すること、優しくすることに向かおうとします。しかし、現実的にはそれがうまくいかないことも少なくないのではないでしょうか。


神との関係が断絶しているが故に、人生に生きづらさを感じている状態。それが罪の状態です。

この罪の状態にあって、人は自分で自分を救うことが決してできないというのが聖書の見解です。しかし、神には人を救うことができます。人にはできないが神にはできるのです。
心の貧しい者は幸いである、という聖書の言葉の真髄がここにあります。自分自身の中に豊かさがない。貧しさしかない。そのことに気付くとき、神の恵みを心から喜ぶことができます。

良い人間になろうとすることには、落とし穴があります。それは、自分の力で成し遂げようとすることです。
もし本当に良い人間になりたいのであれば、まず自分自身の本当の貧しさに気付き、それを認め、神の憐れみを請うことです。
神は生まれる前からあなたのことをとても大切に思っておられます。



シルバー川柳から

図書館で借りたシルバー川柳。
面白いのだけれど、牧師的に引っかかる一句がありました。


あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。

という聖書の一節があります。

因みに牧師も常に神頼みであります。

バイオリニスト三浦文彰さんのことば

1993年3月生まれ、25歳の天才バイオリニスト。

NHK大河ドラマ『真田丸』で、印象深いバイオリンソロから始まるテーマ曲を弾いているのが彼だ。
(ちなみに「真田丸」の題字は、我が飛騨が誇る左官の名匠、挾土秀平さんだ。)
彼曰く
「基礎練習は毎日やります。スポーツ選手と一緒です」(2019年アエラNo.3より)
ということだ。
これには、至極共感する。
時折、こんなクリスチャンに出会うことがある。
「教会にはもう長いこと行っていませんが、ちゃんと信仰は持っています。」
悲しい気持ちになる。神様が私達クリスチャンに望んでいるのは、心で信じているということではなく、心から礼拝することだからだ。
「霊とまことをもって神を礼拝する」
ことだ。これは実践であって、単なる概念ではない。
あまりにも当たり前すぎなので、「わかってますって」と答えが返ってくることもある。いわば基礎練習だ。しかし、プロは、いやプロこそ、この基礎練習を怠らないものなのだ。
毎週礼拝するということ、これがいかに一人のクリスチャンをクリスチャン足らしめているのか。天才と言われる若きバイオリニストのことばから、改めて教えられる。
【今日の聖書】
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。(ヨハネ 4章23節)

みゆる光りはみえぬ光りへ息吹を通わせている

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今日は八木重吉さんという詩人の作品を紹介します。
太陽というタイトルです。
太陽      八木重吉

あなたは総べてのものへ いりこむ

炭にはいっていて赤くあつくなる

草にはいっていて白い花になる

恋人にはいっていて瞳のひかりとなる

 

あなたが神の重い使であることは疑えない

あなたは人間の血のようなものである

地の中の水に似ている

不思議といえば不思議である

有難いといえば実に有難い

あなたよりも力づよいものがあろうか

あながた亡ぶる日があろうか

そして別のあたらしい太陽がかがやく日があろうか

あると基督(キリスト)はおしえられた

ゆえにその日はあると信ぜられる

 

しかしその日まであなたは此の世の光りである

みゆる光りはみえぬ光りへ息吹を通わせている

あなたの高い気持にうたれた日は福(しあわせ)な日である

2019年スタート

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2019年がスタートしました。
今年もよろしくお願いします。
古川教会では、年間を通して、聖書の中から1節を掲げています。これを年間聖句と呼んでいます。
今年2019年は、これです。
あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。 
伝道者の書11章1節
 

ゴスペルコンサート シンガーソングライター内藤容子さんをお招きして

 

本日古川キリスト教会にて、晩の7時よりゴスペルコンサートが開かれます。入場無料です。柔らかく力強い歌声と、希望あふれる世界観の歌詞とメロディーをお楽しみください。

耳の伝道

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私たちは伝道(聖書が言っている良い知らせを伝えること)において、口を用いることだと思いがちですが、実は「聞く」ということがとても重要だということを教えてくれています。クリスチャンならば、一聴の価値ありです。54分。

もったいない時間

牧師の十字路

 

「もったいない時間」が人生を豊かにするのではないかと感じています。先日国府の半田にある荒城川沿いの道を自転車で走っていると、彼岸花(曼珠沙華)がきれいに並んで咲いており、しかも秋ならではの横からの夕陽に照らされて輝いていました。こんな素晴らしいものを見ることができて、来てよかったと思いました。夏とは異なって、道端にすすきが多いことにも気付きます。季節の移り変わりを感じました。デスクワークやクルマの移動ばかりしていたら気付くことはなかったでしょう。

 

与えられている24時間の中で、「意味があるだろう」と私たちが思う範囲は思ったよりも狭いのかもしれません。その範囲を広げて、結果や成果ばかりを求めないで行動することです。ちょっともったいないかもしれないけれど、日常生活から外に向かって踏み出し、神が造られたもの、神が与えてくださっているものに目を留めるようにしていくと、意外にも大きな収穫が得られ、人生が豊かにされるのかもしれません。

 

聖書の言葉

野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。マタイ6章28節

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