今一度、新来者の気持ちになって

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北軽井沢にあるスウィートグラスという一般のキャンプ場を見学してきました。広大な土地に、個性なるキャビンが立ち並びます。キノコをモチーフにしたキャビン、眠るときに星空が見えるキャビンなど。 大切にしているのは、ゲストをお迎えするその姿勢。そのキャビンの利用客のために、キャビン玄関周りの人間の足跡が残っていないように、ほうきで掃いているのです。そこまでしていることが、すばらしいなと思いました。そこには、ゲストを気持ちよく迎えるとひとつの芯が感じられました。

 

古川教会はどうでしょうか。その人がまっすぐキリストと出会い、この方と深く交われるように、新しいゲストのための配慮がなされているでしょうか。自分たちにとっての当たり前が、新しい方々にとって違和感を覚えるような不快なものとなっていないでしょうか。ハード面においてもソフト面においても。「ひとりでも多くの人をキリストに」ということを芯に、まず、自分自身の立ち振る舞いから、もう一度見直したいと思いました。

 

「許し」と「赦し」

教会がキリストから委ねられた使命は罪のゆるしを与えること。(福音に仕える教会2 西大寺キリスト教会)加藤常昭著『教会とは

何か」より引用。

そうですよね。福音が「良い知らせ」ならば、「あなたの罪もゆるされる」というメッセージを発信していくことが大切ですね。

ところで、「許し」と「赦し」はどう違うのでしょうか。
聖書に出てくるゆるしとは、後者です。これは、してしまったこと(取り返しのつかない過去の行為)に対するものです。
一方で「許し」というものは、「ある行為に対する許可」を意味します。

つまり、「赦し」の方には、「時制が伴う」ということですね。「許し」は時制を伴いません。
どういうことか、具体的に取り上げたいと思います。

たとえば、配偶者が不倫をしてしまった場合、「許し」ではなく「赦し」が問われます。
行為そのものに対して決して「許す」ことはできません。
しかし、相手が謝罪してきたら「赦す」ことは選択肢としてありうるということです。

教会は、「許し」を宣言するところではなくて、「赦し」を宣言するところです。
何をしてもいい、罪に問われないのではありません。必ず罪に問われます。
しかし、本人が「罪を言い表す」(罪の告白、罪を悔いること)によって、神の前に赦された者となる、正しい(義)とされます。

これはすごいことですね。しかもこの神の赦しの時制は、過去、現在だけではなく未来にまで及びます。許されえない行為は、やはり許されない。けれども赦されうるということです。

「ごめんで済めば警察はいらない」ということばがありますが、赦しの根拠はキリストの十字架の犠牲にこそあります。この話は、また別の機会に。




聖書の大改訂

 

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新改訳2017という大改訂がなされ出版された今年。大・中・小さまざまな大きさの聖書が次々と出版されています。

 

実は、今年の12月、もうひとつの日本語聖書が30年ぶりの大改訂をして出版されます。その名も「聖書 聖書協会共同訳」です。これまでカトリックとプロテスタントとが力を合わせて翻訳した「新共同訳聖書」の大改訂版になります。

 
1887(明治元訳),1917(大正改訳),1955(口語訳),1987年(新共同訳)に続く形です。およそ30年おきに改訳がなされています。日本だけではなく、世界的にみても同様だそうです。それにしても、明治とか大正という元号を聖書の翻訳名に付けるあたり、その時代の感覚を感じさせますね。元号は、天皇の即位を土台にした年代のとらえ方(歴史的にみると即位に関わらず元号が変わることもありました)です。だから、クリスチャンはイエス・キリストの誕生を土台にした西暦を使った方がよりふさわしいと私は考えています。パンで大きく改訂されるのには、三つの理由があると言われています。(日本聖書協会『SOWER』45、p3より)
 
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▲悒屮薀じ譴筌リシャ語写本の研究が進んでいること
 
聖書学が発展して原文の意味がより明らかになっていること
 
これは、宣教においても大変プラスになることだと思います。牧会について言えば、新しい訳によって今まであやふやだったり誤解を伴いやすかった聖書のことばを、より正確に分かりやすく語り、聞くことができます。また伝道について言えば、今まで一般の人にはなかなか伝わりにくかった単語が、より分かりやすく正確な意味合いで相手に伝えやすくなるからです。

聖書の大幅な改定を、あまりよく思わない人もいるようですが、神様がなそうとしておられる宣教の前進のために、積極的に活用することを牧師としてお勧めします。

 

キリスト教会における「あかし」について

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「証し」、あるいは「証詞」と聞いて、あなたがクリスチャンであるか、教会に行ったことがある場合、どんな印象を受けるだろうか。因みに、これはキリスト教会における専門用語である。

カナダの北でイヌイットの人たちに神の言葉(聖書)を伝えている鈴木教子宣教師がその著本で次のように書いている。
「家主は、プリジー・カナヨックという男で、自分がギャンブル用のような仕事を辞めて、クリスチャン(自称)になったことを、ものすごく自慢していた。」
自称クリスチャンという言葉にも驚いたが、変えられたことを自慢するという表現も興味深かった。
ところで、彼のような自称でなく、真正のクリスチャンであったとしても、どこかで何を「証し」したいかということがズレてくることがある。そこで証ししたいのは、「変えられた自分」であって「変えて下さった神」ではなくなってしまっている。
実は、信仰生活においてこういうことが起きてくることがある。良いと思われている行為に、罪の芽が生じてしまうのである。その芽の育成を促すのは、私たちの虚栄心である。人に認められたい、尊敬されたいといったその心が「キリストを証しする」ことから、「自分を証しする」ことにすり替えてしまう。
喜びの書簡と呼ばれるピリピ書に次のようにある。
(2章3節)
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
今一度、自分自身に問いたい。何を喜んでいるか。こんなにも変わった自分か。それとも、こんなにも変えて下さったキリストかを。

何とかして幾人かでも救うため

先月の宣教区教師会で、支援教師のY牧師がこう言われました。 「映画『君の名は。』を題材にしたトラクトなどを何か考えていますか。


 

私にとっては、考えもしなかったことでした。もちろん著作権のこともあり実際には難しいと思いますが、発想自体が斬新だなと感じました。 確かにパウロもパウロは「何とかして幾人かでも救うため」に「ギリシア人にはギリシア人のようになりました」と言いました。福音の裾野の広がりを自分で限定してはいないか。 そんなことを考えていると、救援衣料の前日、中国から観光で来た3人の若い女性三人組が会堂の中に入ってきました。英語でやり取りをしていると、そのうちのひとりがどうやら中国の家の教会に行っているらしく、「クリスチャンになりたいと考えている」とのことです。「クリスチャンになるには簡単なことではないだろうけれど」という彼女の目は真剣で謙虚でした。「神様が魂に触れてくださることを素直に受け入れるならことができますよ」と伝えました。別のひとりは上海出身だということで、教会所蔵の漢訳聖書(1869年上海で発行されたもの)に目を丸くしていました。


 

神様は、様々なきっかけを通して人を導かれます。私自身最初から諦めないで「何とかして幾人かでも救うため」という情熱と知恵を仰ぎ願いたいと思わされました。

中国からのお客様

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JUGEMテーマ:お知らせ 中国からの3人の旅行者。真ん中のお一人は上海出身だそうです。 古川教会にあるお宝の聖書(1890年代に上海で発行された漢訳の聖書)を手にとって、驚いていました。 一番左の方は、クリスチャンになりたいと思っているそうです。神様の導きがありますように!

※ご本人たちの許可を得て、掲載しています。一番右の方、目をつぶっていてごめんなさい。

早天祈祷会

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昨年に引き続いて、6日限りの受難週早天祈祷会を行いました。初日にはM.T.姉、最終日にはY.T.姉とK.T.姉が集われました。毎日集った方が2名いらっしゃいました。N長老とSさんです。90代、20代、私が40代。たった3人でなんと年齢幅の広い早天祈祷会でしょうか。そこに主の恵みを覚えます。神様は、年代を超えて、キリストにあって一つに集めて下さる。年齢を超えて、神の家族として祈りを一つにしてくださるのです。  

 

一日の始まりを早天祈祷会から始める恵みは、それに出席した者でなければ分かりません。それは何とも形容し難い恵みなのです。その日、いい事があったとか、何もかもうまく行ったということではないのです。何があっても、動じることのない、確かな「重し」が与えられるようなものです。早天祈祷会とデボーションが異なるのは、そこに神の家族としての交わりがあるかどうかです。  この恵みをあなたも来年味わってみませんか。

 

イースター 

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2017年イースターに子どもたちとエッグハント(卵探し)
プラスチックの卵の中を開けると、お菓子が!グループに分かれてからの卵探しは、小さいお友達にも「ここにあるよ」と優しくできるチャンスでした。みんな喜んでますね!

復活の希望 イースター

「けれども私たちの国籍は天にあります。」聖書

 

今年もイースター礼拝、墓前祈祷会、イースター愛餐会を行うことができました。

 

愛する人との地上での別れは大変悲しいことですが、私達には復活の希望があり、それゆえに再会を期待することができます。

聖書のことばがそれを保証してくれています。

 

とても信じ難いことですが、クリスチャンは、死後の復活を信じています。
これは、通常ではとても考えられないことですね。


でも聖書に書かれてあることを信じる信仰が神様から与えられて、みんな信じているんです。

その根拠は、イエス・キリストの復活にあります。彼は十字架で死んでから3日目によみがえりました。
復活は、彼の死が私たちの罪の身代わりであったことの確かな証拠でした。
もし普通の人間であったら、よみがえりません。しかし、彼が罪のない神の子で、私たちの罪を背負って死なれたからこそ、神は彼をよみがえらせたのです。

 

イエスの復活はイエスだけで終わりものとはなりませんでした。彼を信じて、罪が赦された者にも復活の希望が与えられています。

本当に信仰抜きでは到底信じ難いことです。

 

さて、今年のイースターも上気多にある教会のお墓の前で、賛美歌を歌い、黙祷をし、故人を与えて下さった神を礼拝しました。
古川教会の墓地は教会からとても近くてクルマで5分ほどです。都会だと1時間から2時間以上かけて、教会の墓地に行くことも多いのでありがたいことです。

 


日本基督教団飛騨高山教会訪問

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4月9日。古川教会の会堂建築準備委員会6名は、高山市新宮にある飛騨高山教会を訪問し、会堂建築に関して様々な経緯や重点などを伺いました。

 

 

古川町の二之町から現在の若宮に引っ越してから、42年以上が経ちました。二度の大規模増改築を行いましたが、耐震性問題や老朽化によって、やがては新会堂を建てることになります。身近なところで最も新しい会堂を訪れるチャンスが与えられました。

 

 

色々と細やかな説明をしてくださった大塚信明牧師ご夫妻、どうもありがとうございました。
柱を無くしてシンプルさを追求した見事な会堂 
趣のある聖餐卓の木材は、建てる前にこの土地にあった樹木から切り出したそう。