シルバー川柳から

図書館で借りたシルバー川柳。
面白いのだけれど、牧師的に引っかかる一句がありました。


あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。

という聖書の一節があります。

因みに牧師も常に神頼みであります。

神の庭のように

評価:
サラ・C. ヤングスト
日本キリスト教団出版局
¥ 1,944
(2008-04)

JUGEMテーマ:つぶやき。
聖書の中には、さまざまなたとえがなされています。顕著に見られるのが、植物です。

ぶどう、麦、アーモンド、亜麻、とうごま、いちじく、杉など、枚挙に暇がありません。
『神の庭のように』という本は、サラ・C・ヤングストという女性の方が書いています。ですから、学術的というよりは情緒的な面がありますが、さまざまな聖書テキストに即して植物のことが詳細に書かれています。なるほど、とひざを打つこともしばしば。

でもそういった枝葉も心動かされますが、この本全体から受ける印象こそが大切なような気がします。

それは、植物から、私たちは人生を大いに学ぶことができるということです。

一節を紹介してみます。

「努力と固い意志があればこのような収穫が得られるとは言っていません。義の実は神の恵みの賜物で、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられるのです。」(ピリピ1:10〜11の解説の中で)
人がある植物を育てていたとして、その花なり実なりが成ったところで、それを自分自身の手柄とするのは実に愚かなことですよね。だって、自分ひとりが育てたというよりは、土の養分、水や日光や空気や温度のおかげで、花や実を結んだのですから。
そんなふうに考えると、神様が私たちひとりひとりに委ねてくださっている良い行い(義の実)もまた、私たちが誇りとするべきものではなく、神の恵みの賜物だということが良くわかってきます。私一人ではできなかった。謙虚にそう思うこと。これが神の恵みと感謝の生き方を感じるツボのような気がしてきます。

もうすぐペンテコステ(五旬節)ですが、そのことも詳しく書かれていて、本当に勉強になります。おすすめです。
 

どうして伝わらないの?

評価:
ゲーリー チャップマン
いのちのことば社
¥ 1,728
(2007-08-31)

JUGEMテーマ:つぶやき。

「こんなに愛しているのにどうして相手に伝わらないのか」

「どうして私が望む愛し方で愛してくれないのか」

夫婦の関係においてそんなふうに感じることはないでしょうか。 そんな方にお勧めの本がコレ。

ゲーリー氏によると、「愛を感じることが手段」というのは、人それぞれ違っていて、大きく5つに分けることができます。

1.肯定的なことば

2.クオリティ・タイム

3.贈り物

4.サービス行為

5.身体的なタッチ

相手が最も「愛を感じることができる手段」(愛言語)で愛することが大切です。

逆に、自分の愛言語を理解してもらうことも必要でしょう。 私の妻の場合は、「クオリティ・タイム」。

クオリティタイムとは、「一緒に何かをする、楽しむ」ということです。

私の場合は「肯定的な言葉」だったのですが、最近は「クオリティ・タイム」に変わってきました。

何を楽しむかって?自転車です!一緒に自転車に乗る(ゆるーいサイクリングをポタリングと言います)。これがたまらなく楽しいのです。
ゆっくりでもいい。相手のペースに合わせて。一緒に風を感じて、一緒に汗を流す。楽しいですよ。
ひそかに心がけていること。それは「教えすぎない」こと。
相手がうんざりしてしまいますからね。

怒ることについて

評価:
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『「怒(いか)らない」選択法、「怒(おこ)る」技術』という本を読みました。

カウンセリング的な本かなとはじめは思いました。でも作者は臨床心理士や精神科医ではありません。認知科学者という肩書きです。ですから、女性的というよりは非常に男性的な本だと思いました。怒りを感情の爆発として処理するのではなく、本当に怒るときとそうでない時を冷静により分けることを勧めています。そして、本当に怒るべきときは、IQを下げずに、理路整然と相手に対峙するようにアドバイスしています。

怒ってよい場合は、2つの条件にあてはまるときだそうです。
そのひとつは、「相手に過失があり、その過失によって自分に不利益が生じたとき」であり、もうひとつは、「その過失が予想外だったとき」です。

実例を挙げて紹介していますが、意外にも私たちは怒るべきでないときに怒ってしまい、怒るべきことを怒っていないのだと思いました。

後半は、社会的な問題を取り扱っており、怒る相手と矛先を間違えないように、マスコミなどのメディアに踊らされないようにと警鐘を鳴らしています。表現の自由といわれていますが、マスコミもビジネスの歯車のひとつなので、本当に訴えたいことが訴えられないでいる現実があることを構造的に知ることができました。

ところで、聖書の中にイエス・キリストが怒る場面が、たった2度だけ登場します。

ひとつは、ラザロの死になき悲しむ人々の様子を見て「霊の憤りを覚えられた」という場面。

もうひとつは、宮きよめと呼ばれる場面です。宮きよめでは、神殿で商売人たちでごった返しているのを見て、両替人たちのいすを倒し、「わたしの父の家は祈りの家と呼ばれなければならないと書いてある」と批判なさいました。

大抵のことには怒らなかったイエス。しかし、神殿での商売によって祈りと信仰が妨げられるというのは、信仰の不利益を被ることであり、また予想外なことであったに違いありません。

苫米地氏によれば、「間違った怒りは期待外れ」であり、「正しい怒りは信頼関係の裏切り」だそうです。両者は似ていますが、異なるようです。神殿が祈りの家というのは、人間の側からすれば神への「期待」以下のものであったかもしれませんが、神の側からすれば、「信頼」関係の場であったということです。期待は裏切られることをある程度予想しますが、信頼はそうではありません。

イエスの怒りの背後にある、私たちへの厚い信頼に思いを馳せたいと思います。

 
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