キリスト教会における「あかし」について

JUGEMテーマ:つぶやき。

「証し」、あるいは「証詞」と聞いて、あなたがクリスチャンであるか、教会に行ったことがある場合、どんな印象を受けるだろうか。因みに、これはキリスト教会における専門用語である。

カナダの北でイヌイットの人たちに神の言葉(聖書)を伝えている鈴木教子宣教師がその著本で次のように書いている。
「家主は、プリジー・カナヨックという男で、自分がギャンブル用のような仕事を辞めて、クリスチャン(自称)になったことを、ものすごく自慢していた。」
自称クリスチャンという言葉にも驚いたが、変えられたことを自慢するという表現も興味深かった。
ところで、彼のような自称でなく、真正のクリスチャンであったとしても、どこかで何を「証し」したいかということがズレてくることがある。そこで証ししたいのは、「変えられた自分」であって「変えて下さった神」ではなくなってしまっている。
実は、信仰生活においてこういうことが起きてくることがある。良いと思われている行為に、罪の芽が生じてしまうのである。その芽の育成を促すのは、私たちの虚栄心である。人に認められたい、尊敬されたいといったその心が「キリストを証しする」ことから、「自分を証しする」ことにすり替えてしまう。
喜びの書簡と呼ばれるピリピ書に次のようにある。
(2章3節)
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
今一度、自分自身に問いたい。何を喜んでいるか。こんなにも変わった自分か。それとも、こんなにも変えて下さったキリストかを。
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今日は愛一郎さん、お誕生日おめでとうございます‼

  • R
  • 2018/02/05 06:27