日大アメフト事件に際して思うこと

 肉体と精神がぶつかりあうアメリカンフットボール。その競技において、今から25年前、高校の同級生の兄(大学在学中)が、競技生命を絶たれた。脊髄を損傷し、首から下が動かくなってしまった。不幸な事故であったが、競技生命を絶たれただけでなく、将来の夢や希望も全く違ったものになってしまった。家族の痛みも大きかったと思う。  非常に危険なスポーツであることは、そのとき実感した。そして今回の事件。日大の選手が監督とコーチから発破をかけられ、他大学の選手に故意に怪我を負わせた。監督とコーチによる前時代的で悪質な発言が目立つ。「相手選手が怪我をして夏の大会に出られなかったらこちらが得をする。」「これは本当にやらなくてはいけないぞ。」  

 

 

 勝負は駆け引きである。しかし、それ健全な精神をもってしなければならない。そこから外れたら、もはや駆け引きではなく、悪巧みである。攻撃ではなく暴力である。勝利至上主義は、人間の罪の性質と結びつきやすい。そして自らの将来と社会的な立場を滅ぼしていく。  純粋だったはずの勝利への渇望が、人間の罪の性質と結びつきやすいことを心得ておく必要がある。自分自身の心を見張っていく必要がある。

 

 

今日の聖書のことば

 

ヤコブ 1:15 そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 【新改訳2017】

神様に自分の価値を決めてもらう幸い

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寺田由弘牧師(宣教師)をお迎えして「高価で尊いあなた」と題して、イザヤ書43章4節から聖書のお話をしていただきました。

そこには、このように書かれています。


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」

自分で自分の価値を決めるのではなく、神様に決めていただく時、自分という存在価値を自分で認めてあげることができる。そのようなメッセージが語られました。

古川生まれ古川育ちの寺田センセー。古川教会の先輩牧師(17代目)でもあります。私高橋は21代目。

アメリカからの台湾宣教師ジンジャー先生と再婚なさいました。お二人とも素敵なお人柄!

集会後、昔話に花を咲かせました。

聖書の話に耳を傾けてみませんか?聖書講演会のご案内

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古川出身で、古川教会牧師を経て、台湾宣教師へ。台湾で35年。

寺田牧師は、どうしてこの道を選んだのでしょうか。古川で生まれた彼の人生を変え、台湾にまで導いた聖書のことばとは一体どんなものなのでしょう。
どなたでもお越しください。

有志による宣教区教師一泊研修会 in 高岡

木谷師のよびかけで、有志による一泊教師研修会がありました。私は閉会礼拝の説教を依頼され、参加しました。参加は7名でした。停まったホテルも「セブンセブン高岡」…。    それぞれ献身の証し、牧会上の課題などを分かち合いました。一泊ならではの時間をあまり気にしないゆったりとした交わりは、北陸飛騨では5年ほどはなかったように思います。木谷師は言います。「会議も人間関係だと思う。人間同士がよく交われば、信頼関係が深まり、会議の雰囲気も良くなる。」研修会は、お互いの課題を出して祈り合い、御言葉と祈りのうちに締めくくられました。

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自転車で高岡駅⇒高岡古城公園⇒伏木港へ行きました。朝早く快晴で気持ちよかった!

チャペル

今月5月11日に教会広報紙『チャペル』が新聞折込されました。

映画氷菓に古川の町が。

映画『氷菓』を観ました。
古川の風景が出てきました。同じ場所で同じアンブルで写真を撮ってみました。

小説、アニメ、実写映画と作品の媒体が変化していますね。

映画では登場人物の哀しみがうまく表現されていて良かったです。

納骨式

今日は納骨式を行いました。
私たちの国籍は天にあります。

我らの国籍は天にあり

古川教会の9代目と11代目の牧師大塚清明師の夫人、越女姉が天に召され、葬儀に出席しました。96歳でした。
ご遺族と飛騨高山教会に主の慰めがありますように。

子ども食堂

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キリスト教会における「あかし」について

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「証し」、あるいは「証詞」と聞いて、あなたがクリスチャンであるか、教会に行ったことがある場合、どんな印象を受けるだろうか。因みに、これはキリスト教会における専門用語である。

カナダの北でイヌイットの人たちに神の言葉(聖書)を伝えている鈴木教子宣教師がその著本で次のように書いている。
「家主は、プリジー・カナヨックという男で、自分がギャンブル用のような仕事を辞めて、クリスチャン(自称)になったことを、ものすごく自慢していた。」
自称クリスチャンという言葉にも驚いたが、変えられたことを自慢するという表現も興味深かった。
ところで、彼のような自称でなく、真正のクリスチャンであったとしても、どこかで何を「証し」したいかということがズレてくることがある。そこで証ししたいのは、「変えられた自分」であって「変えて下さった神」ではなくなってしまっている。
実は、信仰生活においてこういうことが起きてくることがある。良いと思われている行為に、罪の芽が生じてしまうのである。その芽の育成を促すのは、私たちの虚栄心である。人に認められたい、尊敬されたいといったその心が「キリストを証しする」ことから、「自分を証しする」ことにすり替えてしまう。
喜びの書簡と呼ばれるピリピ書に次のようにある。
(2章3節)
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
今一度、自分自身に問いたい。何を喜んでいるか。こんなにも変わった自分か。それとも、こんなにも変えて下さったキリストかを。